生きることと死ぬことと

 

人間は何のために生きているのかということを考えることがよくあるけど、そもそも人間は何かのために生まれたわけではなくて、生まれてしまったので何かのために生きようとしているというほうが正しい気がする。生まれたので、生きているので、せっかくなら幸せになりたい。生物としての「ヒト」の本能的なもの。

幸せというものは抽象的な概念であって、それは人によって違う。100人いれば100通りの幸せのかたちがある。なので、当然幸せになるための手段も人によって違う。自分にとっての幸せや、幸せになるための手段を他人に押し付けてはいけない。だとすれば、幸せになるため=不幸から逃げるために死ぬことを選ぶ人がいることは当たり前のことなのかもしれない。ただそれを引き止めることは、引き止めた人にとっての幸せのかたち(生きていること)を、死のうとしている人に押し付けることになってしまう。ずっとこの環境で苦しみ続けろとすら言われているような感覚に陥るかもしれない。

死ぬことは悪いことなのか。きっと死ぬこと自体は悪いことではないと思う。その人間が死に至る過程が本人の望むものではない場合、死ぬこと=悪いこと、という繋がりが生まれるんだと思う。病気、事故、不可抗力。自ら死を選ぶことも同様で、それが「今いる苦しい環境から逃げ出すことができなかった結果」だとしたら。それはやっぱり「悪いこと」になってしまうのかもしれない。

身近に死にたいと言っている人がいたとしたら、ほとんどの人がそれを止めると思う。それはどうしてだろう。望んで死ぬことは、当人の精神的には問題ないはず。そうしたくてしたのだから。欲のままに行動した結果なのだから。

だからそれを止める人は、曇りのない慈悲の心だけを持っているわけではないと思う。「あなたがいなくなったらわたしが悲しいから」という心情が、そこには当たり前のように存在している。自分のアイデンティティに含まれるその人の割合が多ければ多いほど、その人がいなくなったときの喪失感が大きくなるから。

同じように自分のアイデンティティの多くを占めている相手から「死なないでほしい。あなたがいなかったら生きていけない。」と言われたとしたら。多分これがいちばんの救済方法なんじゃないかと思う。共依存のようなかたちをとることになる。お互いがお互いのためだけに生きる。自分の存在価値を相手のなかに見出す。

ただこれは本当に依存レベルの執着の役割を果たす相手でないと、「悲しいからいなくならないで」という言葉は生き地獄に縛りつけるようなものに変わってしまうかもしれない。どうしてわたしにそんな辛いことを要求するんだろうって。

誰もが幸せになるための手段を器用に見つけ、実行できるような世界になったらいいな。すべての人がすべての人の幸せを願えるような世界になったらいいな。というお花畑みたいな、夢みたいなことを考えてしまった。