時間

 

 

自分が絶対にできないと思うことを難なくこなしている人を見ると、その人が手の届かないような遠い存在に感じられる。

その距離感を生み出している要因にはもちろん才能や努力というものがあって。だけどいちばん大きな要因はきっと時間。


社会人になった当初、6年目の先輩に憧れていた。その先輩は話しやすくて優しくて、仕事以外のいろんな話も気楽にできた。そして、単純な表現をすると「すごく仕事ができる人」だった。

入ったばかりのわたしには、その先輩がメインでこなしている業務のことはなにひとつ分からない。何が分からないのかも分からないという領域。それを毎日当たり前のようにこなしていた。

「それなのに」、休憩中にはいろんな話をしてくれた。飼っているペットのことや美味しかったご飯の話。

こんなに楽しく普通の話ができているのに。こと仕事に関してはわたしは先輩のことがなにひとつ分からない。感情の距離、物理的な距離はこんなにも近いのに。近いからこそ。どう頑張っても埋めることのできない類の絶望的な距離感を感じた。

6年目の先輩と1年目のわたし。仕事に差があって当たり前だと理解しているはずなのに。


その先輩はわたしが3年目の時に退職した。もうひとり別の先輩が、その1年後に退職した。先輩たちが辞めたことで空いた穴を埋めるために必死になった。なりたくてなったわけではなく、ならなきゃいけなかった。

新しいことを覚えるのに一生懸命だった。思うようにできなくて悔しかったり、それを相談しないことを怒られて傷ついたり、自分の未熟さが周囲に迷惑をかけるのが苦しかったり、もう辞めようと思ったり。そういう気持ちや感情の色をひとつひとつリアルに思い出せる。


そういう壁をいつのまにかいくつも乗り越えていた。気づいたら数年前自分が憧れていた自分になっていた。自覚なんて少しもないまま。あのときなにひとつ理解できずに距離を感じていた先輩の仕事を理解できるようになっていた。

それに気づいたとき、これまでの時間の流れを思い出した。短かったとは言えないけど、長かったとも言えない。時間としての体感は短いのに、苦しかったこと悔しかったことは山ほど思い出せる。そんな感覚。


時間というものは目に見えない。だから長い時間をかけてつくられた分厚い壁が現れても、目に見えるのは分厚い壁そのものだけ。

費やした時間だけはどうしても肉眼で見ることができない。その場でその時間を体感することもできない。ある人が過ごしてきた数年間を味わい、体験することはできない。


誰もが長い時間の中で努力して手に入れたものを持って生きている。元々持っているもの、易々と手に入れたものではないとして、それを手に入れるまでの過程や感情を感じることはできない。だから分かりにくいだけ。読み取れないだけ。

そう思うだけで、距離感や劣等感から少しだけでも解放される気がする。心に留めておけば、他人の時間をわずかでも想像することができたら、自分を少しだけ楽にさせてあげられる。

だけど、もしも時間を肉眼で見ることができたら。他人の数年分を一瞬で体感することができたら。自分のネガティブな感情のすべてを取り払うことができるのかな。そう思ってしまうとやっぱり、時間というものを見てみたいと思う。

自分の精神の範疇を超えておかしくなってしまいそうだけど。