ドラマ「中学聖日記」の感想

 

中学聖日記というドラマを観た。男子中学生・黒岩晶(岡田健史)と、その担任である女教師・末永聖(有村架純)の恋愛ストーリー。

正直、期待せずに観た。有村架純が教師役というところが注目を浴びていただけのドラマだと思っていた。のに………本当に素晴らしかった。恋愛ドラマということばで一括りにするのはすごく惜しいと思う。

 

「僕はただ、先生と一緒に楽しくなったり、優しくしたりしたいだけなのに。」

初恋らしい、綺麗すぎる晶の恋愛感情。それをそのまま言葉にした、純愛。聖に婚約者がいることを知りながら。晶が中学生という立場だからこそぶつけることができた言葉。本来、ただこれだけの単純に思える言葉に、人を好きになることの全てが詰まっているのかもしれない。

 

岡田健史くんの中学生らしい素直で繊細で不安定な演技が本当に素晴らしかった。あの不安定さこそが、汚いものや余計なものをすべて取り払ったむきだしの、本来の恋愛感情の姿。

そして、自分が先生のことを好きな気持ちを暴走させればさせるほど、先生と一緒にいられなくなることを理解しきれない子どもっぽさ。

 

「誰が何言おうと関係ない。僕、先生が好きです。」

晶のまっすぐさに聖が心を打たれたのは、彼女がもう大人だから。

 

例えば、婚約者である勝太郎の両親と顔合わせをした際には、勝太郎の母から遠回しに仕事を辞めて専業主婦になるようにと諭されて苦笑いをしているが、これはまさに、自分の感情だけでは行動できず、受け入れなければいけない「大人の事情」。大人になるにつれて、それが当たり前の日常になっていく。

それに対比される、黒岩くんのまっすぐな気持ち。眩しく見えることは間違いない。

 

理性と感情の狭間で揺れ動く聖を演じた有村架純も素晴らしかった。

「僕は先生に優しくしたい。」

その言葉に感情を動かされ、涙が出そうになるのを強気な表情でこらえる姿。理性が負けそうになる瞬間の表情。好きだと思えば思うほど、「制御しなければ」という気持ちが絆されていってしまう。

ふたりが初めてキスをするとき、聖は晶の気持ちと自分の気持ちをゆっくり受け入れる。聖が徐々に瞼を閉じていくシーンが、それを表しているように見えた。

 

聖の婚約者・勝太郎は、物語の序盤では「スペックの高い最高の彼氏」という位置付けに感じられたが、実はプライドが高く、彼女に理解がある寛容な男を演じているだけで、本当は全てを自分の思い通りにしたいという気持ちが強い人物。

ドラマの序盤でも終盤でも、勝太郎が自分の気持ちを言葉にしながら聖を抱き締める場面があるが、それはすべて聖を背面から抱き締める一方的なもので、聖がそれを返すことはなかった。

結果的に晶に聖をとられ、婚約破棄をするに至ってしまったことを根に持っており、数年経ってもふたりの仲を引き裂こうとする。

建前は「未成年とだなんてダメだ」「聖の夢を壊すのは許さない」と主張しているが、聖のことが好きで執着しているというよりは、「聖に選ばれなかった過去の自分」に執着しているのでは。

 

そしてもうひとつ、晶と勝太郎が決定的に違ったところといえば、聖が教師であることをどのように捉えていたかというところ。

晶は教師である聖を好きになり、聖が教師でいることを望んだ。勝太郎は聖が教師を辞めることを望んでいた。

「教師、辞めるんですか?」

「あれだけ好きだった仕事、諦めていいんですか。後悔してほしくないんです。」

「きっといい先生になる」

晶は最後まで、聖の背中を押し続けた。

 

聖は晶によって背中を押され、「いい子」「いい先生」であろうとした、遠慮がちな性格の殻を破り、自分の心と逃げずに向き合うことができるようになった。

晶は聖との関係を阻み続けた母親と向き合い、理解し、これまでのようにがむしゃらに聖に向かっていくのではなく、聖との未来のためにできることは何かを考えるようになった。

ストーリーを通して、ふたりは成長を遂げる。 そうして成長したふたりは、数年後に再会する。

 

「大人になるにつれて持つことができなくなるまっすぐな感情」をぶつけていた晶はあまりにも眩しい。

年を重ねるにつれて、しがらみが増える。同時に考えるようになる。恋愛がどんどん難しくなる。 黒岩晶という、中学生という、子どもっぽさや早く大人になりたいという気持ちが入り混じった危うい時期の少年。迷いながらも我慢することなく、いろんな障壁について深く考えることなく、まっすぐに人を好きになっていた。

それは恋愛感情のあるべき姿というか、本来の姿というか。そういったものを感じさせてくれた。それがあまりにも純な愛すぎて、輝かしく思えた。

それはわたしも聖と同じように、薄汚れた大人の世界にいるからかもしれない。そう思うと、それも悪くないと思えてしまった。中学聖日記を観るのは、今でなければならなかったかもしれない。

 

生きることと死ぬことと

 

人間は何のために生きているのかということを考えることがよくあるけど、そもそも人間は何かのために生まれたわけではなくて、生まれてしまったので何かのために生きようとしているというほうが正しい気がする。生まれたので、生きているので、せっかくなら幸せになりたい。生物としての「ヒト」の本能的なもの。

幸せというものは抽象的な概念であって、それは人によって違う。100人いれば100通りの幸せのかたちがある。なので、当然幸せになるための手段も人によって違う。自分にとっての幸せや、幸せになるための手段を他人に押し付けてはいけない。だとすれば、幸せになるため=不幸から逃げるために死ぬことを選ぶ人がいることは当たり前のことなのかもしれない。ただそれを引き止めることは、引き止めた人にとっての幸せのかたち(生きていること)を、死のうとしている人に押し付けることになってしまう。ずっとこの環境で苦しみ続けろとすら言われているような感覚に陥るかもしれない。

死ぬことは悪いことなのか。きっと死ぬこと自体は悪いことではないと思う。その人間が死に至る過程が本人の望むものではない場合、死ぬこと=悪いこと、という繋がりが生まれるんだと思う。病気、事故、不可抗力。自ら死を選ぶことも同様で、それが「今いる苦しい環境から逃げ出すことができなかった結果」だとしたら。それはやっぱり「悪いこと」になってしまうのかもしれない。

身近に死にたいと言っている人がいたとしたら、ほとんどの人がそれを止めると思う。それはどうしてだろう。望んで死ぬことは、当人の精神的には問題ないはず。そうしたくてしたのだから。欲のままに行動した結果なのだから。

だからそれを止める人は、曇りのない慈悲の心だけを持っているわけではないと思う。「あなたがいなくなったらわたしが悲しいから」という心情が、そこには当たり前のように存在している。自分のアイデンティティに含まれるその人の割合が多ければ多いほど、その人がいなくなったときの喪失感が大きくなるから。

同じように自分のアイデンティティの多くを占めている相手から「死なないでほしい。あなたがいなかったら生きていけない。」と言われたとしたら。多分これがいちばんの救済方法なんじゃないかと思う。共依存のようなかたちをとることになる。お互いがお互いのためだけに生きる。自分の存在価値を相手のなかに見出す。

ただこれは本当に依存レベルの執着の役割を果たす相手でないと、「悲しいからいなくならないで」という言葉は生き地獄に縛りつけるようなものに変わってしまうかもしれない。どうしてわたしにそんな辛いことを要求するんだろうって。

誰もが幸せになるための手段を器用に見つけ、実行できるような世界になったらいいな。すべての人がすべての人の幸せを願えるような世界になったらいいな。というお花畑みたいな、夢みたいなことを考えてしまった。

 

 

 

時間

 

 

自分が絶対にできないと思うことを難なくこなしている人を見ると、その人が手の届かないような遠い存在に感じられる。

その距離感を生み出している要因にはもちろん才能や努力というものがあって。だけどいちばん大きな要因はきっと時間。


社会人になった当初、6年目の先輩に憧れていた。その先輩は話しやすくて優しくて、仕事以外のいろんな話も気楽にできた。そして、単純な表現をすると「すごく仕事ができる人」だった。

入ったばかりのわたしには、その先輩がメインでこなしている業務のことはなにひとつ分からない。何が分からないのかも分からないという領域。それを毎日当たり前のようにこなしていた。

「それなのに」、休憩中にはいろんな話をしてくれた。飼っているペットのことや美味しかったご飯の話。

こんなに楽しく普通の話ができているのに。こと仕事に関してはわたしは先輩のことがなにひとつ分からない。感情の距離、物理的な距離はこんなにも近いのに。近いからこそ。どう頑張っても埋めることのできない類の絶望的な距離感を感じた。

6年目の先輩と1年目のわたし。仕事に差があって当たり前だと理解しているはずなのに。


その先輩はわたしが3年目の時に退職した。もうひとり別の先輩が、その1年後に退職した。先輩たちが辞めたことで空いた穴を埋めるために必死になった。なりたくてなったわけではなく、ならなきゃいけなかった。

新しいことを覚えるのに一生懸命だった。思うようにできなくて悔しかったり、それを相談しないことを怒られて傷ついたり、自分の未熟さが周囲に迷惑をかけるのが苦しかったり、もう辞めようと思ったり。そういう気持ちや感情の色をひとつひとつリアルに思い出せる。


そういう壁をいつのまにかいくつも乗り越えていた。気づいたら数年前自分が憧れていた自分になっていた。自覚なんて少しもないまま。あのときなにひとつ理解できずに距離を感じていた先輩の仕事を理解できるようになっていた。

それに気づいたとき、これまでの時間の流れを思い出した。短かったとは言えないけど、長かったとも言えない。時間としての体感は短いのに、苦しかったこと悔しかったことは山ほど思い出せる。そんな感覚。


時間というものは目に見えない。だから長い時間をかけてつくられた分厚い壁が現れても、目に見えるのは分厚い壁そのものだけ。

費やした時間だけはどうしても肉眼で見ることができない。その場でその時間を体感することもできない。ある人が過ごしてきた数年間を味わい、体験することはできない。


誰もが長い時間の中で努力して手に入れたものを持って生きている。元々持っているもの、易々と手に入れたものではないとして、それを手に入れるまでの過程や感情を感じることはできない。だから分かりにくいだけ。読み取れないだけ。

そう思うだけで、距離感や劣等感から少しだけでも解放される気がする。心に留めておけば、他人の時間をわずかでも想像することができたら、自分を少しだけ楽にさせてあげられる。

だけど、もしも時間を肉眼で見ることができたら。他人の数年分を一瞬で体感することができたら。自分のネガティブな感情のすべてを取り払うことができるのかな。そう思ってしまうとやっぱり、時間というものを見てみたいと思う。

自分の精神の範疇を超えておかしくなってしまいそうだけど。

 

 

 

感情、言葉、表現

 

 

数年前ネット上で創作活動(とは呼べないような取るに足らないもの)をしていたとき、その中のとあるコミュニティで出会ったMさん(仮称)の書く文章にとても惹かれた。

Mさんは「好き」という感情を「好き」やそれに類似した言葉を使うことなく表現するのがとても上手だった。「好き」「大好き」「愛してる」という言葉に収められるものから超越するような、そんな感情を言葉を使って表現していた。どんなに小さな感情の起伏や流れもひとつも取りこぼすことなく細やかに表現していた。その感情に、ありふれた言葉がついてくる。

きっと本来、人の心の動き方や考え方はそういう仕組みなんだと思う。「好き」という言葉だけがひとりで歩き始めるわけじゃない。どこからとも分からない場所から生まれて溢れてくる脆くて繊細な感情に、「好き」という言葉を当てはめている。頭の中で無意識にそういう作業をしている。

「好き」というひとつの言葉に変換される前のぼんやりとした感覚や感じる温度のようなものを言語化するのは至難の業であり、そもそもそれを感知すること自体が難しい。

「好き」という概念がこの世から消え去ったら、本来なら「好き」と表す感情はどんな言葉で置き換えられるんだろう。きっとそれはそこに100人いれば100通りあると思う。

エヴァンゲリヲン新劇場版「破」での綾波レイの台詞「碇くんと一緒にいるとポカポカする。私も碇くんにポカポカしてほしい。」

これは、まさにそのもの。素敵だね。

 

 

 

R.I.P

 

自分が負わなければならない責任はなるべく少なくして生きていたいと思う。責任が重ければ重いほど、背負ってるものを置いて逃げることができなくなるから。逃げたいのに逃げられない状況というのはあまりにも苦しい。

自分が結婚や出産という選択肢を肯定的に捉えられないのは、そういうところから来ている気がする。自分の子どもが産まれたら、子どものために生きなきゃいけなくなる。子どものために働いてお金を稼いで、子どものために自分を犠牲にして、子どものために怒ったり泣いたり。実際子どもを産んだらきっとすごく愛おしくてたまらなくて、子どものために自分を犠牲にすることを全く厭わないのかもしれない。そんな未来は想像さえできないけど。今は。苦しいときは苦しいところから逃げたい。自分を擦り減らしてまでその場所に居続けたくない。だから、それを邪魔してしまうものがそばにある環境は避けたい。そうやってわたしはわたしを守ることに必死で、自分が壊れないように生きることに精一杯でしかない。

昔好きだったバンドのボーカルが、「自分は自分のためにバンドをやって自分のために曲をつくって自分のために歌ってる」っていうスタンスだった。それから数年後、とある日のブログで「自分のためにやってたことがいつのまにかみんなの気持ちを少しでも動かすことに繋がっていてよかった。って思えるようになった。」って書いているのを見たとき、こういう生き方がしたいなって思った。「自分のため」をずっと失わずに、それだけは絶対に大切にして。そんな生き方が、自分の周りの人たちの心を動かして、少しだけその人たちの幸せを手伝う。少しだけでも人のために生きられる。そんなニュアンスで。

もちろんその人は発信者としての最前線をいくアーティストだから、わたしとは立場は全く違うけど。結局はそうやって少しだけでも誰かの心を動かしたいと思うのは、他人の心の中に自分の確固たる存在場所が欲しいからなのかもしれない。自分の好きなように生きる自分を、(ある意味では無条件に)他人に認めて欲しくて、褒めて欲しいからなのかもしれない。

まだ書きたかったけど集中力途切れたので終わり()

 

 

遺書について


※「東京喰種」「僕の初恋を君に捧ぐ」のネタバレを含みます

 

通ってる歯医者の受付のお姉さんと仲良くなった。コロナワクチンの話をした。「◯◯さんももうすぐですよね。ワクチン打って死んだらどうしよう。遺書でも書いておこうかな。」お姉さんが冗談混半分に言った言葉を、家に帰って少ししてから思い出した。遺書というものを書いてみたいと思った。遺書を書かなければいけない状況に直面したとき、自分がどんなことを書くのか知りたくなった。今まで出会ったたくさんの人たちのおかげでとても幸せな人生だった。とか?それとも、もっとやりたいことがたくさんあった。会いたい人がたくさんいた。死にたくない。って書くかな。そんな気がする。わたしはとても欲張りなので。でも実際のところは分からないね。だって今本当に遺書を書かなければいけない状況下にいないから。ただひとつだけ確信してるのは、不幸だったとは書かないだろうなということ。わたしはいろんなことに否定的で、自分の心と言葉でわざわざ悲しさや寂しさを倍増させてしまったりしている。常に。それでも多分、遺書を書くとしたらそんなことは書かない気がする。自分の人生は幸せなものだったと思いたいからかな。実際本当に幸せだと思っているからかな。他人に向けて遺す言葉に幸せだったと書いてしまえば、それが事実になるからかな。他人にはわたしのことは分からないのだから、幸せだと言ってしまえばいい。死人に口無し(本来の意味だと使い方違うらしいですね)なので、わたしという人間は幸せだったことになる。果たしてそれがわたしという人間個人の本当の幸せとイコールなのかは分からないけど。っていうわたしの考え方自体、他人本意な人生を認めている気がしてきた。ていうか本当の幸せってなんだ。え?なんだこの話。


ところで遺書といえば。東京喰種という漫画で、人間の敵である(とされる)喰種と戦う「喰種捜査官」の滝澤政道が、命の危険を伴う作戦(梟討伐作戦)の前夜に実家の机で遺書を書くというワンシーンがありました。遺書を書き終えたあと、その上から「死にたくない」と大きな文字で書き殴った。怖くなった。これ死亡フラグなのではと思った。どうか死なないでと思った。のちに滝澤くんがまさかあんなことになるなんてこの時はもちろん知らない。考えようによっては死ぬよりもつらい道を歩むことになる。でもああなったからこそ、わたしにとって滝澤くん=オウルは東京喰種でいちばん大好きなキャラクター。(関係ない話になってしまったのでここでストップ)


もうひとつ思い出した。遺書といえば。「僕の初恋を君に捧ぐ」という漫画。逞くんという心臓病の男の子が、難しい手術を前にして幼なじみの彼女、繭ちゃんに宛てて遺書を書いていました。そこには、これから叶えたいたくさんの夢と、もし死んでしまったら代わりにその夢を叶えてほしいこと、他の人と家庭を持って幸せになってほしいことが綴られていたけど、これもまた書いている途中で涙が止まらなくなり、「死にたくない」と叫びます。最終的な結末は読者にお任せというスタイルで完結していた記憶。これはわたしが初めて最初から最後まで読んだ少女漫画で、とても思い出深い漫画です。すごく良かった。何が良かったかというと、ストーリーはもちろん、考えさせられることがたくさんあった。特にわたしが考えさせられたのは「脳死は人の死なのか」ということ。逞と繭の先輩である昴という人物が交通事故が原因で脳死状態に陥ります。昴は生前ドナーカードを持ち、心臓のところにマルをつけていました。逞のためです。脳死状態となった昴の心臓が逞に移植されることになります。通常ドナーの提供先は明かされませんが、タイミングや血液型から判断して自分に移植されるのは昴の心臓だと悟った逞は迷います。繭を含めた彼の周囲の人は、逞に移植される心臓が見つかったことを喜びます。20歳まで生きることができないと言われていた逞が、移植手術がうまくいけばその先も生き続けることができるからです。昴は脳死状態にあっても、時々反射で手を動かしたりします。それを見た彼の恋人は「生きている」と昴のそばで泣き続けます。それを見てしまった逞。を見ている繭。「逞に心臓がもらえてうれしい。もしかしたら先輩の心臓じゃないかもしれないし」逞にそんなことを言う繭ですが、結局逞の意思を尊重します。「逞が嫌ならやめてもいいよ」と言って。………あれ。なんの話してたんだ。


今、小池真理子さんの「死の島」という小説を読んでいます。どうやら尊厳死が云々という話みたいです。感想書けたらいいなと思うんだけど、正直ブックレビューって何よりも書くの難しいんですよね。気付いたらあらすじを書いてるだけになってしまっていたりする。不思議なことにね。自分の心に浮かんできた些細な感情の変化や抑揚を言語化するのって難しいよね。(森山降ってこい)


いろいろ話が脱線した上に取り止めがなくていろんな感情も置いてけぼりで回収されていませんがこれも記念ということでこのままにします。

 

読んでくれたひとありがとう。

今日のブログは長いね!

 

 

 

新境地

 

 


考えることにおいて、自分の範疇を超えることって不可能だよね。自分が自分以外のものになることができないから。だから他人の思考や創造物は怖いくらいに刺激的。自分がいろんな小説を読みたくなる理由を考えたときにそう思った。小説ってすごい。何もないまっさらなところから、言葉だけを使った新しい世界がつくりだされている。無のところから無限が生まれる。文字をとらえて、文章を読んで、そうすると頭の中に見たことのない景色が広がって、会ったことのないひとたちの顔が浮かんできて、聞いたことのない声で話し始める。それは確実にわたしの知らなかった世界で、わたしの範疇を超える境地で、新しいものや刺激的なものに満ち溢れている。感情を揺さぶられ続ける。小説って嗜好品だよね。読まなくても生きていけるから。それでも、それを読んだ人にしか見えない世界が存在して、少なからず現実に影響を与える。気に入った小説を読み終えた翌日、現実が纏う空気が少しだけ違うような気さえしてくることだってある。人生は一度きりなので、せっかくならそういう気持ちをできるだけたくさん味わいたい。ので。よっしゃ今日も読むぞ!